偉人たちの足跡

岩美町は多くの偉人を輩出しています。町には、彼ら偉人を偲んで資料館や記念碑があちらこちらに点在しています。偉人たちのこん跡から歴史をさかのぼり、偉人たちが残した足跡を巡ってみる旅はいかがでしょうか。

岩美が生んだ偉人たち

 

通幻禅師(つうげんぜんじ)1322〜1391

香林寺、子持地蔵の由来
元享3年(1323年)浦富の長者の娘が難産のため死亡。香林寺門前自得庵の傍に葬りましたが、その翌日、墓中より赤子の泣き声のするのを遍歴中の僧が聞きとめました。訳を話して墓を開いてみれば母は死後出産していました。僧は「仏の弟子としたい」と、長者よりこの子を貰い受け豊後の国にて養育。この赤子が後の曹洞宗通幻派始祖、通幻禅師。元禄11年、由来を刻んだ碑が建てられ、寛政2年子持地蔵が奉置されました。

 

仙英禅師(せんえいぜんじ)1794〜1864

国際舞台への決断
仙英禅師は寛政6年(1794年)浦富生まれ、倉吉で修行。烏取・景福寺の住持だった48歳の時、井伊直弼の招きを受けて彦根・清涼寺へ移り、参禅を通じて直弼の精神的支柱となりました。開国・攘夷をめぐって国論が沸騰していた折り、心揺れる大老・直弼を禅師は「日頃何のために修行をして来たのか?心頭を滅却し、ただ断の一字あるのみ」と諭しました。これに力を得て直弼は決然と安政仮条約に調印をしたといわれています。

 

阪本四方太(さかもとよもた)1873〜1917

俳人:写生文の鬼
明治6年、大谷に生まれました。高校時代に高浜虚子と知り合い俳句をはじめ、東京帝国大学に入学してからは正岡子規に師事し本格的に俳句に熱中。明治30年、俳誌『ホトトギス』創刊号に寄稿、以後数々の俳誌で俳旬選者となりました。明治40年、『ホトトギス』に「夢の如し」を連載。東京帝国大学文科大学助教授兼附属図書館司書官。明治42年「夢の如し」を出版。

 

田村虎蔵(たむらとらぞう)1873〜1943

親しみやすい唱歌を作曲
「まさかりかついで金太郎…」や「裏の畑でポチがなく…」など、誰でもよく知っていて、ふと口をついて出てくる唱歌を作曲したのは、岩美町出身の田村虎蔵です。明治6年、岩美町馬場の生まれ。「浦島太郎」「一寸法師」「大黒様」「牛若丸」「青葉の笛」など題名を聞くだけで楽しく懐かしい気分になってきます。穏やかな笑顔、秀麗な風貌、堂々として朗らかであった人柄を偲んで、出生地馬場に記念標柱が建てられています。

 

松岡駒吉(まつおかこまきち)1888〜1958

初代衆議院議長に
戦前戦後を通じ、一筋に労働運動に力を傾けた松岡駒吉は明治21年岩井温泉の生まれ。向学心に燃えていたが貧しさのため進学を断念。機械工として働く内に、労働者の人格と権利を尊重する運動に目覚め、「松岡の部屋から灯りの消えたことがない」と言われるほどの猛勉強をしました。戦後、片山内閣が発足した際の、新憲法下初の国会で、初代衆議院議長に選出されました。

 

澤田廉三(さわだれんぞう)1888〜1970

国連初代日本大使
戦後、日本を国際舞台に復帰させ国連大使を務めた澤田廉三は明治21年浦富生まれ。外交官として各国で活躍。どこに居ても故郷浦富を忘れず、景勝浦富海岸は世界中に誇るべきと絶賛、深く郷土を愛しました。漂着した露軍将兵の遺体を厚く葬った漁民の心を「人類愛」、通幻禅師を墓中で出産した母の力を「母子愛」、そして郷土愛を通じての「祖国愛」を「三愛」として提唱・実践。国際平和への揺るがぬ礎としました。
夫人の美喜女史は、戦後進駐軍将兵と日本女性の間に生まれた混血児たちを守るために、神奈県大磯に工リザベスサンダースホームを創設。昭和28年頃から子供たちと一緒に、羽尾岬の熊井浜の別荘で夏を過ごすようになりました。静かな浜には今も別荘跡が残され、皆の心に生き続けています。


 

橋浦泰雄(はしうらやすお)1988〜1979

民俗学の確立に貢献
少年時代から文学や絵が好きで文学者を志して上京した後、社会主義運動家として大きな業績を残しました。また、日本各地の民俗探訪の旅に出かけ調査報告を次々と発表し、柳田国男とならぶ民俗学者でもあり文人・画家です。


 

尾崎翠(おさきみどり)1896〜1971

異色の女流作家
尾崎翠は明治29年(1896)現在の岩井温泉に生まれた優れた女性作家です。18歳で鳥取高等女学校(現烏取西高)を卒業後、岩美町の大岩尋常小学校の代用教員となり、この頃より文学に目覚め、東京の文芸雑誌に投稿しては入選をしていました。大正6年には本格的に文学に打ち込むために教員をやめて初めて上京。その二年後には日本女子大国文科に入学しました。人間存在の深層を描いた長編代表作『第七官界彷徨』、作品集『アップルパイの午後』など、独特の感性と知性と強い意志によって支えられた作品群は、昭和初期に彗星のように異彩を放ち、人々を驚かせました。しかしその真価は漸く近年になって理解されはじめ、文学全集や映画、評論などが続々と公にされています。

 

澤春蔵(さわはるぞう)1901〜1972

私の天職は自動車業
日本交通の創業者。19歳のときトラックによる運送業を始めました。その後大阪に出てハイヤーの営業を始め、「人の三倍働く」をモットーにがむしゃらに働きました。昭和16年日本交通を設立しましたが、原油製品対日輸出がストップ。代替燃料の切り替えを余儀なくされ、木炭車を開発し当時の輸送力確保に大きな功績を残しました。