歴史の探求

横尾の棚田(日本棚田百選)、旧岩美鉱山、荒金行者山、山陰道蒲生峠、穴観音、鵜殿家墓地・浦富御台場、高野坂古墳公園、駟馳山峠の石畳道、山城 (二上城跡、道竹城跡、桐山城跡)のエピソードなど古い歴史があります。

岩美の名所

 

横尾の棚田(よこおのたなだ)

日本の棚田100選に選定されている横尾の棚田は、地すべりによってできた緩斜面を利用してつくられています。
「棚田オーナー制度」にも取り組んでおり、県内外の棚田オーナーが、年に数回農業体験に訪れます。

 

荒金行者山(あらかねぎょうじゃさん)

荒金集落の南方にある、標高555メートルの山。山名は役行者に由来しており、かつて「国峰」と呼ばれた因幡の国における一大修験霊場です。毎年、新暦の7月7日(近年は間近の日曜日)、集落の入り口に幟を建て行者の館に役行者の掛け軸を飾り、住民が集まって般若心経やご詠歌をあげて、行者山のまつりを行っています。

史跡・旧跡

 

旧岩美鉱山(きゅういわみこうざん)

旧岩美鉱山(通称、荒金銅鉱)は記録上日本最古の鉱山とされており、その歴史は1300年に及びます。和銅年間(710年頃)元明天皇に銅を献上した際に「荒金(あらかね)」と命名されたといわれます。坑道総延長29.2キロ。
昭和46年に廃坑、現在は鉱山坑廃水処理施設となっていますが、大切坑入りロから200メートルまではコンクリートで補強整傭されており、予め連絡すれば坑内を見学することができます。

 

山陰道蒲生峠(さんいんどうがもうとうげ)

山陰道とは、五畿七道の一つで山陰と京都を結んだ道です。万葉の昔、大伴家持・山上憶良らの歌人が国司として着任する際、この峠を越えました。秀吉の因幡侵攻、慶応四年鎮撫使の一行が鳥取入りするときもこの峠を使いました。分岐点の標高は、357メートルです。

 

穴観音(あなかんのん)小畑1号墳

古墳時代後期の築造で石室全長11.2メートル、高さ3.5メートルもあり、天井には大きな切り石が使われています。安永年間(1780年頃)このあたりの大谷沢の干拓事業が成就したのを記念して、和田忠太夫が施主となり、33体の観音像を石室内に安置しました。以後この古墳は「穴観音さん」と呼ばれ親しまれてきました。平成2年、石室崩壌の危険のため、観音像はすぐ近くの新安置所に移し替えられました。

 

鵜殿家墓地・浦富御台場(うどのけぼち・うらどめおだいば)

鵜殿長次が、鳥取藩祖・池田光仲公の国替えで烏取入部の折り随伴して後、代々家老職を勤め浦富を直領としました。幕末朗に鵜殿長道が築造した浦富御台場は海岸近くにあります。鵜殿家の遠祖は紀州新宮鵜殿村にさかのぼります。墓所は、桐山城東山麓の幽遠の地で、12の墓碑が静かに佇んでいます。

 

高野坂古墳公園(たかのさか こふんこうえん)

30数基の古墳や横穴墓の点在する高野坂古墳群。そのうちの一つ、高野坂10号墳を建築当時の姿のままに移築復元しています。石室は全長8.8メートル、幅2メートル。刳り抜き式の家形石棺が置かれており、南側の開口部から内部をうかがうことができます。石室の床からは全国的にも数例しかない「銅製壺鐙」が発見されました。

 

駟馳山峠(しちやまとうげ)の石畳道(六部さん道)

駟馳山の傾斜地に残されている美しい石畳道は、旧山陰道の駟馳山峠です。赤土の急な坂道で滑りやすく、峠越えをする人は大変な難儀をしていましたが、文化8年(1811年)多十郎という六部(諸国を遍歴する僧)が「人々の苦しみを救うことこそ仏の道」と一念発起し、烏取・倉吉までもの有力者の協力を得て工事を始めました。一年後に石畳が完成したとき、人々は感謝のあまり、念仏を高らかに唱えつつ往来したといわれています。
やがて「六部さん道」と呼ばれるようになったこの美しい石畳道を踏み歩んでいると、昔の人の苦労と喜びが偲ばれてきます。

岩美の山城跡

 

山城/二上城跡(ふたがみじょうあと)

南北朝時代、因幡の守護大名となった山名時氏は岩常に二上城を築きました。但馬国から法美郡(現鳥取市国府町)へ通じるこの辺りは交通の要衝。当時は二上城が因幡の中心地で、岩常はその城下町でした。南屋敷・中村屋敷・山崎屋敷等の地名が昔の面影を伝えています。

山城/道竹城跡(どうちくじょうあと)

二上城を後継した山名勝豊はやがてそこを去り、布勢(現鳥取市湖山)の天神城へ移りました。但馬の三上兵庫頭が岩常に迎えられましたが、二上城は余りに道険しく往来が自由でないため、三上兵庫頭もまた、川下の新井の山に新しく城を構えて道竹城と称したといわれています。

山城/桐山城跡(きりやまじょうあと)

毛利元就に敗れた尼子晴久の家臣、山中鹿之助は家臣中で唯一毛利に従わず、浦富に桐山城を築いて、主君の恨みを晴らさんと動静を窺りました。時代は下り、天正9年、烏取城落城の折りに秀吉は功労のあった将に知行地を分配し、桐山城は垣屋光成に与えられました。その後、江戸時代には、浦富を領地とした烏取藩家老、鵜殿家の居城となりました。